14試合の収益をパリへ預けた バルセロナを残し、選手を散らした1937年北米遠征
1937年、スペイン内戦のさなかにFCバルセロナはメキシコと米国へ渡った。目的は親善だけではない。資金難のクラブを支えるためだった。遠征はまとまった収益を残したが、選手の多くは戦地へ戻らなかった。クラブの存続と、一人ひとりの避難が同じ旅の中で分かれた。
17万ペセタの赤字を抱え、内戦下の街を離れた
1936年7月に始まったスペイン内戦は、試合日程だけでなくクラブ経営も止めた。FCバルセロナの2025年資料は、1937年当時の赤字を17万ペセタとしている。資産も接収され、クラブは消滅の危険に直面していたという。
ペセタは当時のスペイン通貨で、現在のユーロへ単純換算できない。試合収入が細るなか、クラブは北米遠征で資金を得ようとした。スペインサッカー連盟は一行が5月17日に出発したと記し、クラブの2024年記事は翌18日に列車でフランスへ向かったとしている。二つの資料で出発日が一日ずれる。移動の起点が違う可能性はあるが、少なくとも5月中旬に街を離れ、帰国は10月だった。
10試合の予定は14試合へ。米国遠征は現地で決まった
当初はメキシコで5試合、3週間の予定だった。ESPNによると、反響を受けて滞在は3カ月へ延び、メキシコ10試合と米国4試合になった。米国の4試合は、8月末に米国リーグ側がメキシコを訪れ、遠征責任者ロセンド・カルベットへ提案して決まった。
メキシコではラサロ・カルデナス政権がスペイン共和国側を支持していた。クラブは、領事アレハンドロ・ゴメス・マガンダと、カタルーニャ出身の実業家マヌエル・マス・セラーノが受け入れを支えたと説明する。親善試合であると同時に、クラブの資金をつくる旅だった。
二つの公式額は一致しない。それでも資金はパリに残った
収益額は、同じクラブの資料でも一致しない。2024年の記事は46万1799.10ペセタ、1万2500ドル。2025年の記事は純収益1万5000ドル、約50万ペセタとしている。集計範囲や換算時点が書かれていないため、同じ数字としてまとめることはできない。
一方、2024年のクラブ記事とESPNは、46万1799.10ペセタが10月にパリの銀行へ預けられ、内戦後の赤字補填に使われたと伝える。遠征先で稼いだだけではなく、戦火の外へ資金を移せたことが、クラブを残す支えになった。
20選手の遠征団から、7人はメキシコ、3人はフランスへ
クラブ公式は、遠征へ20選手を送ったと記す。終了後、マルティ・ベントルラら7選手はメキシコに住み、ドメネク・バルマニャ、ジョゼップ・エスコラ、ラモン・サバロの3人はフランスに残った。スタッフを含む遠征団全体では、帰国したのは半分だった。
ベントルラの息子が連盟に語った回想では、本人は帰国船に乗った後、メキシコのクラブから契約を提示され、荷物を下ろした。戦争から離れることと、新しい仕事を選ぶことが同時に起きていた。選手ごとに事情は違うため、10人の選択を一つの言葉にはまとめない。
2024年はニューヨーク、2025年はメキシコで旅を語り直した
2024年、ニューヨーク市とクラブはブルックリンで1937年の一行を顕彰した。2025年にはメキシコでも、クラブが当時の支援へ謝意を示す催しを開いた。80年以上後に、旅の両側で同じ歴史が語り直された。
残ったのは「遠征でクラブが救われた」という話だけではない。パリには資金が残り、選手たちは複数の国へ分かれた。組織を守った旅が、全員を元の場所へ戻したわけではなかった。
