3度優勝した監督は、1938年に仕事を失った インテルとボローニャがヴァイスを教え直す理由
アルパド・ヴァイスは、インテルとボローニャで計3度のイタリア王者になった。だが、ユダヤ人だった彼は1938年の人種法で仕事と居場所を失い、1944年にアウシュヴィッツで殺された。長く忘れられた監督を、二つのクラブはいま、追悼式だけでなく育成年代の学びへ戻している。
34歳で、新方式セリエAの最初の王者になった
ヴァイスは1896年、当時のオーストリア=ハンガリー帝国に生まれたユダヤ系ハンガリー人だ。ハンガリー代表としてプレーし、イタリアではインテルの選手を経て監督になった。
1929-30季、アンブロジアーナと呼ばれていたインテルを優勝へ導いた。全国一つの順位表で争う新方式のセリエAが始まった最初の季で、ヴァイスは34歳だった。その後はボローニャで1935-36、1936-37季を連覇する。二つのクラブで計3度のリーグ優勝を果たした。
1938年10月、成績ではなく人種法で職を追われた
ムッソリーニ政権は1938年、ユダヤ人を社会から排除する人種法を導入した。ローマのショアー博物館財団の資料は、ヴァイスが同年10月に解任され、ユダヤ人の外国人として1939年に国外へ出ることを強いられたと記す。
前年までリーグを連覇していた監督が、競技成績ではなく出自を理由にベンチを奪われた。妻と二人の子どもを連れ、まずフランスへ、その後オランダへ移った。
オランダへ逃れても、安全は続かなかった
一家はフランスを経てオランダへ移り、ヴァイスはドルトレヒトのクラブで監督を続けた。だが1940年、ナチス・ドイツがオランダを占領する。1942年には一家が拘束され、アウシュヴィッツへ送られた。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ博物館によると、妻と二人の子どもはビルケナウで殺された。ヴァイスは上シレジアの工場で強制労働をさせられた後、アウシュヴィッツへ移され、1944年1月に殺された。監督としての実績も名声も、反ユダヤ人政策から家族を守る盾にはならなかった。
2007年の本が、優勝記録と迫害をつなぎ直した
戦前の優勝監督でありながら、ヴァイスの生涯は戦後およそ60年、広く語られなかった。人権教育団体Gariwoは、記者マッテオ・マラーニが2007年に刊行した『Dallo scudetto ad Auschwitz(スクデットからアウシュヴィッツへ)』が、その足取りを再び知らせたと説明する。
それまで別々に扱われがちだった「3度優勝した監督」と「人種法で職を追われた家族」が、一人の歴史として結び直された。クラブの追悼は、その後も式典だけにとどまっていない。
背番号18から、育成選手の授業へ
インテルとボローニャは2019年、ヴァイスが指揮した他クラブとともに、ホロコーストの歴史を伝えるミラノのショアー記念館へ集まった。交換したシャツは18番。ヘブライ語で「命」を表す言葉と結びつく数字として選ばれた。
2025年にはインテルの育成選手が、反ユダヤ主義と人種差別を扱う舞台を見て、ヴァイスの人生を学んだ。ボローニャも2026年1月27日、本拠地レナート・ダッラーラで顕彰式を開き、育成部門の代表者が参加した。教えているのは優勝回数だけではない。排除が仕事を奪い、移動を強い、家族の命を奪った順番だ。
