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三つのクラブを束ねても、ラツィオは入らなかった ASローマが1927年に背負った街の色

ローマとラツィオの対立は、同じ街に二つのクラブが生まれた、という単純な話ではない。ラツィオは1900年から存在した。ASローマは1927年、三つのクラブを一つにして作られた。そこには北部勢へ対抗する競技上の狙いがあり、ファシズム期の政治も重なった。それでも、街の統合は完成しなかった。

首都にクラブは多かった。強い一つがなかった

1920年代のイタリアサッカーでは、ジェノア、ユヴェントス、ボローニャなど北部のクラブが強かった。首都ローマには複数のチームがあったが、力と資金は分かれていた。

ASローマ公式史が示す創設の狙いは明快だ。ローマの選手と組織を集め、北部勢に対抗できる大きなクラブをつくることだった。個々のクラブを残したまま強化するのではなく、統合で土台から組み直す案だった。

6月7日は合意、7月22日は組織を形にした日

合流したのは、フォルティトゥード=プロ・ローマ、アルバ=アウダーチェ、フットボール・クラブ・ディ・ローマの三つ。1927年6月7日の夕方に統合で合意した。ASローマは2026年の99周年記事でも、この日をクラブ成立の節目としている。

では7月22日は何か。初代会長イタロ・フォスキが「第1号命令」に署名し、競技、財務、本部という運営区分を整えた日だ。二つの日付はどちらかが誤りなのではない。合意と組織化という、違う段階を示している。

新しいクラブは、街の赤黄と雌狼を選んだ

クラブカラーにはローマ市の赤と黄が採られた。紋章には、ローマ建国神話で双子を育てたカピトリーノの雌狼が入った。特定の合併元だけでなく、都市そのものを名乗る選択だった。

これは装飾以上の意味を持つ。統合で消えた三つのクラブの境界を越え、「ローマのクラブ」として認識されるための共通記号になるからだ。ASローマの愛称「ジャッロロッシ」は、イタリア語で黄赤を意味する。

競技の統合を、政治から切り離せない

初代会長フォスキは、単なるスポーツ実務家ではなかった。Reutersは、ムッソリーニの国家ファシスト党で活動し、政治的な反対者への複数の暴力事件に関与した人物だと報じている。World Soccerが引用する1927年6月8日付の新聞も、党上層部の意向に沿った統合だったと伝える。

クラブ公式史は、北部勢へ対抗する競技目的を前面に出す。独立資料は、統合を後押しした当時の権力構造を示す。強いクラブを求めた三クラブ側の事情と、都市のスポーツを組み替えようとしたファシズム期の政治は、同じ創設過程に重なっていた。

ラツィオが残ったから、街は一色にならなかった

ラツィオは、1900年1月9日にローマで生まれた総合スポーツクラブだ。World Soccerによると、クラブ首脳陣は統合に反対し、独自の会合でエットレ・ヴァリーニを会長、ジョルジョ・ヴァッカーロを副会長に選んだ。古いクラブとしての独自性を保ち、新しいASローマには加わらない意思を人事でも示したことになる。

ASローマは三つのクラブを束ね、街の色と雌狼をまとった。ラツィオは既存組織を残した。後の「デルビー・デッラ・カピターレ」、つまり首都ダービーは、試合で初めて二つに割れたのではない。1927年の統合に加わるかどうかで、すでに違う道を選んでいた。

参考記事AS Roma — Club history from 1927AS Roma — The 99th anniversary of the mergerLazio — Club history from 1900World Soccer — The merger and Lazio's oppositionReuters — Italo Foschi's political record