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外国人を受け入れるため、ミランから分かれた 「インテルナツィオナーレ」という名前の原点
インテルは、イタリア北部ミラノを本拠地とするクラブだ。正式名の「インテルナツィオナーレ」は、後から付けた世界戦略の言葉ではない。1908年、外国人選手を受け入れる方針を選んだ人々が、創設時から名前に入れた。
15人が集まり、44人が創立文書に名を連ねた
1908年3月9日、ミラノ中心部のドゥオーモ広場22番地にあったオロロージョというレストランに15人が集まった。クラブ公式史によると、話し合いは約3時間続き、午後11時30分に終わった。画家ジョルジョ・ムッジャーニが創立文書を書き、最初の円形エンブレムを描いた。文書には44人の名がある。15人はその夜の出席者、44人は創立文書に名を連ねた人々であり、同じ人数ではない。
外国人選手をめぐる対立が、名前になった
UEFAは、ACミラン側で外国人選手の登録をめぐる問題が起き、そこから分かれた人々が1908年に新クラブをつくったと説明している。選んだ名称はフットボール・クラブ・インテルナツィオナーレ・ミラノ。「国際的」を意味する言葉は、人気の広がりではなく、国籍を問わず選手を迎える方針を示していた。
1928年、政権の要求で「インテル」が消えた
クラブ名は、その後ずっと変わらなかったわけではない。ファシズム政権下の1928年、政権の要求によってアンブロジアーナへ改称し、エンブレムも大きく変えた。クラブ公式史が示すのは、国際性を掲げた名前が、国家主義の時代に外されたという事実だ。
1945年、名前と最初の意匠が戻った
第二次世界大戦が終わった1945年、クラブは「インテル」の名へ戻った。エンブレムにも、ムッジャーニが1908年に組み合わせたF・C・I・Mの文字が再び現れた。創設時の名称、1928年の中断、戦後の回復をたどると、「インテル」は短い呼び名ではなく、誰を受け入れるクラブとして始まったかを残す言葉だと分かる。
