4万6000人の翌年、FA加盟球場を失った 工場生まれのディック・カー・レディース
第一次世界大戦中、イングランド北西部プレストンの軍需工場から女子チームが生まれた。ディック・カー・レディースは1920年、少なくとも4万6000人を集める。だが翌年、イングランドサッカー協会は加盟クラブの球場で女子の試合を行わせないと決めた。人気の頂点と、会場を失う決定は一年しか離れていない。
機関車工場が軍需工場となり、休憩時間にチームができた
ディック・カー社は機関車を造る企業だったが、戦時中は軍需工場になった。働く女性たちは仕事の静かな時間に工場の庭でボールを蹴り、事務職員アルバート・フランクランドの提案でチームを組んだ。初試合は1917年12月25日。プレストン・ノースエンドの本拠地ディープデイルに約1万人を集め、地元の戦時病院へ約500ポンドを募った。工場の健康活動が、観客を入れる慈善試合へ育った。
グディソンの観客は、4万6000人と5万3000人の記録が残る
最も知られる試合は1920年12月26日、エヴァートンの本拠地グディソン・パークで行われたセント・ヘレンズ・レディース戦だ。国立サッカー博物館は少なくとも4万6000人が入場したとする。当時の新聞には5万3000人という数字もあり、さらに1万人以上が入れなかったと報じられた。資料が一致しないため、題名では確認できる下限を使った。どちらの数字でも、女子の試合が大きな観客と慈善収入を生んでいたことは変わらない。
1921年12月5日、奪われたのは主要球場への入口だった
イングランドサッカー協会(FA)は1921年12月5日、女子の試合をFA加盟クラブのグラウンドで行わせないと決めた。女子にサッカーは適さないという見解を示し、入場収入のうち慈善目的へ回る割合にも疑義を唱えた。決定の範囲は、英国で女性がボールを蹴る行為そのものの違法化ではなく、加盟球場の使用禁止だった。多くの観客を入れられる会場と、登録審判を含む協会の仕組みから女子チームを外した。
5日後に新協会をつくり、公園やラグビー場で続けた
選手たちは止まらなかった。FAの記録では、決定から5日後の12月10日、約30チームがリヴァプールへ集まり、イングリッシュ・レディース・フットボール協会を組織した。ディック・カーも活動を続け、1922年には北米へ遠征した。ただし大きな球場を使えず、試合数と社会の関心は次第に細った。FAは1970年に1921年の決議を撤回し、1971年の規則改定で加盟球場と登録審判への道が戻った。
リリー・パーの殿堂入りは、失われた入口を記録に戻した
ディック・カーで長くプレーしたリリー・パーは、約30年の競技歴を持つ得点者として知られる。2002年、国立サッカー博物館の殿堂に女性として初めて選ばれた。FA自身も現在、1921年の決定と約50年の周縁化を女子サッカー史に記している。今の大観衆を新しい流行だけで捉えると、グディソンに集まった人々と、その翌年に狭められた入口が抜け落ちる。
