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初優勝の翌年に辞任を迫られ、亡命後に戻った バイエルンとクルト・ラントアー

FCバイエルンが初めてドイツ王者になった1932年、会長はクルト・ラントアーだった。ユダヤ系だった彼は翌年に辞任を迫られ、強制収容所を経てスイスへ逃れた。それでも戦後のミュンヘンへ戻り、会員から再び会長に選ばれた。いまクラブが語る成功の歴史には、一度消された人物を取り戻した過程も含まれている。

選手から銀行員へ、そして会長になった

ラントアーは1884年、ミュンヘン近郊のプラネックに生まれた。1901年にバイエルンの若手選手となり、ローザンヌとフィレンツェで銀行業を学んだ後、1913年に初めて会長へ就いた。第一次世界大戦後は、1922年の一年間を除き、1919年春から1933年3月までクラブを率いた。自前の大競技場よりチームへの投資を優先し、1932年にクラブ初のドイツ選手権優勝へたどり着いた。

優勝の翌年、クラブと仕事を失った

ナチ党が政権を握ると、ユダヤ系のラントアーは1933年3月22日に会長を辞任させられ、出版社の職も失った。1938年11月の「水晶の夜」の翌日に逮捕され、ダッハウ強制収容所で囚人番号20009を付けられた。第一次世界大戦の従軍歴により33日後に釈放されたが、1939年3月15日にスイスへ逃れた。ミュンヘン・ユダヤ博物館によると、兄弟のパウル、フランツ、レオと妹ガブリエーレは殺害された。

1947年、会員がもう一度選んだ

ラントアーは1947年6月にミュンヘンへ戻り、その年にバイエルン会長へ選出された。最後の任期は1951年まで続いた。亡命先に残る道もあった人物が、迫害を受けた街へ戻り、会員組織の投票でクラブの代表になった。博物館は、バイエルンとのつながりが彼に1933年以前の人生を取り戻す糸口を与えたと説明している。

記憶を戻したのは、研究者とファンだった

ラントアーは1961年に亡くなったが、その物語がクラブの中心へ戻るまでには時間がかかった。歴史家ディートリヒ・シュルツェ=マーメリングが1993年に埋もれていた経歴を掘り起こした。サポーター集団シッケリアは2006年から彼の名を冠した反差別大会を開催。2012年開館のクラブ博物館に常設展示が置かれ、2015年には広場が彼の名に変わった。ファン主導の財団は約8万ドルを集め、2019年にゼーベナー通りへ等身大の像を建てた。

像の前で、職員が迫害の記憶を聞いた

2025年5月8日、ホロコースト生存者アッバ・ナオルが約150人のクラブ職員に自身の経験を語り、ラントアー像も訪れた。会長ヘルベルト・ハイナーはラントアーを和解の模範と呼び、反差別活動へつないだ。初優勝を導いた会長として称えるだけなら、話は1932年で終わる。誰が彼を排除し、研究者とファンがどう記憶を戻したのかまで示して、バイエルンの歴史は現在の仕事になった。

参考記事FC Bayern — Kurt Landauer biography, presidencies, persecution and returnFC Bayern — the club under National Socialism and postwar reconstructionJewish Museum Munich — Landauer, exile and the relatives murdered in the ShoahFC Bayern — Abba Naor's visit and staff event on 8 May 2025The Times of Israel / JTA — the 1993 rediscovery and supporter-led memorial work