クイズ賞金で渡英し、マンUの子ども向け教室へ ダンブラウスカスを支えた評価表
情報確認日: (JST)
2026年9月10日、アゼルバイジャン王者サバはマンチェスター・ユナイテッドとのUEFAチャンピオンズリーグ・リーグフェーズ初戦に臨み、0-4で敗れた。サバは首都バクー近郊を本拠とする、2017年創設のクラブだ。率いるヴァルダス・ダンブラウスカスがマンチェスター・ユナイテッドと最初に接点を持ったのは、選手としてでも、アカデミーの指導者としてでもなかった。リトアニアのクイズ番組で得た賞金を足しにロンドンへ移り、子ども向けのサッカースクールで働いた。そこで渡された一枚の評価表が、英語も十分でなかった若い指導者の自信を支えた。
約725ポンドは、地元なら家を買える金額だった
2002年、25歳のダンブラウスカスは、リトアニア版のクイズ番組『Who Wants to Be a Millionaire?』に出場した。賞金は当時の換算で約725ポンド。本人によると、北部の故郷パクルオイスではアパートを買えるほどの金額だった。だが、彼と交際相手だった現在の妻は、そのお金をロンドンへ移るために使った。
賞金が進路を生んだわけではない。渡英はすでに計画していたと本人は説明する。当時は会社員で、選手として目立った経歴はなかった。リトアニアでは元選手でなければ指導者への道がほとんど見えず、イングランドで学んで母国の入口に立つことを考えた。賞金は、その計画を現実に近づける資金になった。
最初の教え子は、アカデミー選手ではない
ロンドンでの8年間は、指導だけで生活できた時期ではなかった。パブ、新聞配達、保育施設、庭仕事などを掛け持ちした。リトアニアで哲学と社会科学を学んでいたが、ロンドン・メトロポリタン大学ではスポーツ科学とコーチングを学び直した。
最初の指導先は、北ロンドンのフィンズベリー・パークを拠点とする地域スポーツ事業だった。土曜の朝や学校休暇に子どもを教えた。その後、面接を経てマンチェスター・ユナイテッド・サッカースクールへ入った。クラブ名は付いていても、トップ選手を育てるアカデミーではない。各地の子ども向け教室や、宿泊を伴う海外プログラムを担当する仕事だった。
ジョン・シールズが、一年の仕事を言葉にした
機会を与えたのは、マンチェスター・ユナイテッド財団の最高責任者だったジョン・シールズだ。ダンブラウスカスは当時の英語を「とても不十分だった」と振り返る。それでもシールズは一年を通じて支え、年度末の評価表に、仕事は良く、この先さらにできることがあるという趣旨を書いた。
本人は、その評価が非常に大きな後押しになったと話す。まだプロクラブへの階段が見えない時期に、目の前の仕事を見た人が、次へ進めると文章で伝えたからだ。指導者を育てたのは講習だけではない。仕事を見て、言葉にして返す人もいた。
収入が五分の一になる帰国を、妻が支えた
大学の友人を通じ、地域スポーツ団体ロンドン・タイガースにも加わった。やがて同団体のセミプロチームを率い、フラムやブレントフォードでは非常勤で働いた。ロンドン中心部のYMCAで地域スポーツを担当し、ロンドンFAで指導資格も取った。大学の課題をバスで仕上げる日もあったという。
2010年、母国のエクラナスでアシスタントコーチになる話を選んだ。本人の説明では、収入は英国時代のおよそ五分の一になる。それでも妻は帰国を支持した。2014年末にはリトアニア最大級のクラブ、ジャルギリスの監督に就いた。2025年にはサバを率い、前季にカラバフから41ポイント離されていたチームを、翌季は9ポイント上回るリーグ優勝へ導いた。
サバは国内二冠の後、四つの予選ラウンドを勝ち上がり、初めてチャンピオンズリーグ本大会へ進んだ。オールド・トラフォードでは0-4で敗れた。ダンブラウスカスが約20年ぶりにマンチェスター・ユナイテッドと向き合った時、立場は子ども向け教室の指導員から、一国の王者を率いる監督へ変わっていた。クイズ賞金は、すでに決めていた渡英を支えた。その先をつないだのは、地域での指導、働きを文章で評価した人、収入が下がる帰国を支えた家族だった。
