鉄道員だけのクラブを、街へ開いた ロサリオ・セントラルの1903年
ロサリオ・セントラルは、アルゼンチン中部の大都市ロサリオを代表するクラブの一つだ。だが1889年の入口は狭かった。会員になれたのは鉄道会社の従業員だけ。1903年、会社の統合をきっかけに会員資格とクラブ名を一緒に変えた。「ロサリオ」と「セントラル」という二語には、街と鉄道の両方が残った。
1889年、会員資格は鉄道員だけだった
始まりはロサリオ北部の鉄道工場だった。セントラル・アルヘンティン鉄道の職員たちが仕事後にボールを蹴り、1889年12月24日に70人が集まってクラブを作った。英語名はCentral Argentine Railway Athletic Club。直訳すれば「中央アルゼンチン鉄道運動クラブ」で、初代会長にはスコットランド出身のコリン・ベイン・カルダーが選ばれた。
公式史によると、会員になれたのは鉄道従業員だけだった。競技の場であると同時に、職場の内側にある組織だった。ロサリオ市議会の公文書も、鉄道会社が最初の競技場用地を提供したと記録している。
鉄道会社の統合で、70人が130人になった
1903年、セントラル・アルヘンティン鉄道とブエノスアイレス&ロサリオ鉄道が統合した。後者の拠点だったカンパナなどから職員が移り、クラブの会員は70人から130人へ増えたとクラブは説明する。新たに加わった人びとは、外部の人を入れられない既存の規約と向き合うことになった。
この鉄道工場を紹介するロサリオ国立大学の記事は、後年の人事記録を調べた研究も紹介している。そこにはスペイン、イタリア、中国、日本、東欧、ラテンアメリカ出身の労働者がいた。1903年のクラブ会員の出身構成を直接示す資料ではないが、鉄道職場そのものが多様な移民の働く場所だったことは分かる。
ミゲル・グリーンは、名前と入口を一緒に変えた
臨時総会で前面に出たのがミゲル・ヒュー・グリーンだ。アイルランド出身の両親のもとロサリオで生まれ、1895年の国勢調査では15歳の鉄道事務見習いとして記録されている。のちに選手とクラブ幹部を務めた。
クラブ公式史では、グリーンが鉄道会社の外の人にも入会を認めることと、英語名をスペイン語化することを提案した。両案が通り、月会費を払えば一般市民も会員になれるようになった。Club Atlético Rosario Centralという現在の名も、ここで定まった。改名だけなら看板の交換で終わる。会員資格まで変えたことで、クラブは職場の囲いから街へ出た。
「ロサリオ」と「セントラル」は、二つの側をつないだ
後年の地元史料は、新たに加わった側が都市名の「ロサリオ」を、創設側が鉄道名の「セントラル」を重んじたと伝える。1928年の記事には、折衷案として当初「Rosario-Central」とハイフンを入れたという回想も残る。
ただし、総会の同時代議事録は公開資料で確認できない。クラブ公式と市の公文書は変更を1903年とする一方、1928年の記事は総会を1902年末とした。当時の新聞では1903年5月に旧称、6月末から7月に新しい呼び方が現れる。変更年は1903年と確認できても、総会の日付と最初の表記までは一つに絞れない。
街へ開いても、鉄道の記憶は切れなかった
ロサリオ市は2009年12月17日、1889年の創設地を歴史文化的な重要地に指定した。公文書は、鉄道職員70人が集まり、会社が最初の競技場用地を提供した場所として説明している。
会員資格を一般へ開くことは、鉄道との出発点を消すことではなかった。Rosarioは街、Centralは創設母体の鉄道につながる言葉だ。現在のクラブ名には、1903年に広げた入口と、1889年の職場の記憶が一緒に残っている。
