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13〜20歳の22人が創設し、翌年に加わった学生が会議の言葉を変えた ナシオナルの1899年

クラブ・ナシオナル・デ・フットボールは1899年5月14日、ウルグアイの首都モンテビデオで13〜20歳の若者22人が設立した。だが、リーグ会議をスペイン語で行うよう求めたミゲル・ネベルは、その22人ではない。翌年に別クラブから加わった学生だった。創設者と後発組の仕事を分けると、『ナシオナル』という名が一度の会議だけで完成した理念ではなかったことが見えてくる。

二つのチームから、22人が集まった

設立会議はエルネスト・カプラリオの家で開かれた。集まったのは、モンテビデオFCとウルグアイ・アスレティック・クラブの関係者だった。最年少は13歳、最年長でも20歳。若者たちは二つのチームを合わせ、クラブ名と最初の役員を決めた。

当時のウルグアイでは、英国人や鉄道会社と結びついたクラブが競技の中心にいた。地元紙El Paísも、外国系クラブに対抗するため、学生たちが新しい組織を作ったと説明している。22人という数字が示すのは規模よりも、運営を担った人々の若さだ。

『最初のクリオージョ』には、別の先行例もある

ナシオナル公式とLaLigaは、クラブをラテンアメリカ最初の『クリオージョ』チームと説明する。ここでのクリオージョは、欧州系の家族に生まれながら現地で育った人を指す。血統の純粋さを示す言葉ではない。

ただし、FIFAのミゲル・ネベル人物史には、ナシオナルより先に存在したアルビオンFCも、当初は地元生まれのクリオージョだけを選手にしていたとある。のちに英国人指導者を迎えるため規約を変えた。『最初』は、選手資格を見るのか、創設者と運営を見るのかで答えが変わる。ナシオナルがはっきり掲げたのは、地元生まれの学生が自分たちで運営するクラブだった。

ネベルは翌年に加わり、会議の言葉を変えた

ミゲル・ネベルは大学生としてアルビオンでプレーした後、デフェンサFCへ移った。FIFAによると、1900年にデフェンサとナシオナルの合流を提案し、副会長にも就いた。つまり、1899年の創設22人ではなく、翌年から組織を広げた側の人物だ。

ナシオナルは1900年、新設リーグへの参加を競争力不足として認められず、1901年に加盟した。ネベルは最初期のリーグ代表者となり、会議を英語ではなく、国内で広く使われるスペイン語で行うよう強く求めた。クラブ名のスペイン語化だけでなく、競技を決める場の言葉まで変えようとした。

色落ちした赤から、白いシャツとポケットへ

赤、青、白は、ウルグアイ独立史の中心人物ホセ・ヘルバシオ・アルティガスの旗に由来する。創設時は赤いシャツと青いパンツだった。ところが赤い生地は洗濯で色が落ちた。FIFAは、ネベルが1902年に白いシャツへの変更を提案し、古い色のクラブ章を付けたポケットを加えたと伝える。

現在まで残る愛称『ロス・ボルシジュドス』は、このポケットに結びつく。ボルシージョはスペイン語でポケットという意味だ。国の象徴から選んだ三色は残しながら、毎日の洗濯に耐える着方へ変えた。理念を守ったのは、同じシャツを着続けることではなく、色を別の形へ移す工夫だった。

参考記事Nacional — Founding historyNacional — Founder Domingo PratFIFA — Miguel Nebel and Nacional's early governanceEl País Uruguay — Nacional's 1899 foundationLaLiga — The founding colours and the 1902 change