ダッハウ33日を経て、1947年に会長へ戻った バイエルンがラントアーを現在形で記憶する理由
バイエルン・ミュンヘン初のドイツ王者を率いた会長は、翌年、ユダヤ系であることを理由に職を追われた。クルト・ラントアーはダッハウ強制収容所への収容とスイス亡命を生き延び、戦後の会員投票で会長へ戻る。クラブがこの人物を語るなら、優勝と復帰だけでなく、排除に合わせた自らの歩みも外せない。
1932年の初優勝は、若手と外国人指導者を選んだ先にあった
クルト・ラントアーは1884年、ミュンヘン近郊のプラネックでユダヤ系商家に生まれた。1901年に選手としてバイエルンへ入り、ローザンヌとフィレンツェで銀行員の修業を受ける。1913年に初めて会長へ選ばれ、第一次世界大戦後の1919年に復帰した。
バイエルンの公式略歴は、ラントアーが自前の競技場よりチームへの投資を優先したと記す。バイエルン歴史辞典は、若手の育成に加え、ハンガリーやオーストリアなど国外の指導者を継続して招いた点を挙げる。監督リヒャルト・コーンもその一人だった。
1932年6月12日、バイエルンはニュルンベルクでアイントラハト・フランクフルトを2-0で破り、初のドイツ選手権優勝を果たした。会長一人が勝たせたのではない。ただ、人と知識へ資金を向ける判断が、初優勝まで続くチームづくりを支えた。
「ユダヤ人のクラブ」と差別される一方、クラブも排除へ合わせた
1933年1月、ナチ党が政権を握った。ユダヤ系の創設者、会員、役員、指導者がいたバイエルンは、体制側から「ユダヤ人のクラブ」と呼ばれ、差別を受けた。ラントアーは3月22日、変わった政治状況の下で会長を辞任せざるを得なくなった。勤務先の出版社でも管理職を失う。
ただし、クラブを一貫した抵抗者として描くこともできない。バイエルン歴史辞典によると、クラブは4月9日、ユダヤ人をクラブから排除する南ドイツの競技団体の声明に署名した。1935年には「非アーリア系」を会員から除く条項を規約へ入れた。同辞典は、ナチ体制の模範クラブでも、積極的抵抗の拠点でもなかったと整理している。
優勝会長が追われた事実と、その後に組織が体制へ適応した事実は、同時に置く必要がある。
囚人番号20009。釈放後も、家族は戻らなかった
1938年11月、反ユダヤ暴動「水晶の夜」の翌日、ラントアーは逮捕された。送られたダッハウ強制収容所は、ミュンヘン近郊にナチスが設けた収容所である。囚人番号は20009。第一次世界大戦への従軍歴があったため33日後に釈放され、1939年3月15日にスイスへ逃れた。
33日は、迫害が軽かったことを示す数字ではない。自由を奪われた期間であり、その後も故郷を離れざるを得なかった。ミュンヘン市立ユダヤ博物館によると、ラントアーは亡命で生き延びたが、兄弟のパウル、フランツ、レオと姉妹のガブリエーレは殺害された。1932年の優勝と戦後の復帰だけを結ぶと、この断絶が抜け落ちる。
1947年、帰国しただけでなく会員に選ばれ直した
ラントアーは1947年6月にミュンヘンへ戻り、8月19日に会員から再び会長へ選ばれた。最後の任期は1951年まで続く。戦災で事務所を失い、多くの会員を失ったクラブに、戦前の会長が民主的な手続きで戻った。
1948年には、ミュンヘン市がゼーベナー通りの運動場の一部をクラブへ移した。現在もトップチームの練習拠点として知られる場所だ。歴史辞典は、ラントアーがナチ党との政治的な問題を抱えず、市長カール・シャルナグルともつながりがあったため、再出発時の抵抗が比較的小さかったと記す。
土地の確保をラントアー一人の手柄にはできない。市との関係と会員の選択を、クラブ再建へ結びつけた点に意味がある。
2026年、女子チームもダッハウで名前を学び直した
現在、ゼーベナー通りにはラントアーの等身大像があり、クラブは彼を名誉会長として紹介している。像を発案し実現したのは、サポーターが設立したクルト・ラントアー財団だった。
記憶は像だけに固定されていない。2026年8月27日、バイエルン女子チームはクラブの反差別活動「Rot gegen Rassismus」の一環でダッハウ記念館を訪れた。収容所におけるサッカー、ラントアー、ほかのユダヤ系会員の歴史を学んだ。
