ライバルの色が本拠地を埋めた ブライトン「Fans United」から14年の仮住まいへ
1997年2月8日、ブライトンの本拠地に、別のクラブのシャツを着た人々が集まった。呼びかけたのは、プリマス・アーガイルを応援する15歳のリチャード・ヴォーンだった。土地も資金も持たないサポーター同士の連帯は、クラブが14年後に街の新しい本拠地へ戻るまで、何を残したのか。
次の家がないまま、ゴールドストーンは売られた
ブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンは、イングランド南岸の街ブライトンを本拠とするクラブだ。1990年代半ば、長年のホームだったゴールドストーン・グラウンドが、代わりの競技場を確保しないまま開発業者へ売却された。
クラブ公式の記録によると、1997年夏の移転先候補には近隣の競技場もあった。それでも選ばれたのは、約120キロ離れたケント州ジリンガムのプリーストフィールドだった。チームがリーグに残れても、街で試合をする場所が消える状況だった。
15歳の他クラブファンが、ネットで呼びかけた
転機の一つが、1997年2月8日の「Fans United」だった。発案者は、イングランド南西部のプリマス・アーガイルを応援していた15歳のリチャード・ヴォーンだ。
ヴォーンはインターネットを通じ、他クラブのサポーターへブライトンに来るよう呼びかけた。現在のようなSNSが広く使われる前である。自分のクラブとは別の危機を知り、仲間へ伝え、現地まで出向く。その連鎖自体が運動になった。
自分のクラブのシャツが、抗議の色になった
参加者はブライトンの色に着替えなかった。普段応援するクラブのシャツを着て、ゴールドストーンへ集まった。
ブライトンのサポーター団体は、国内のライバル同士だけでなく、国外からの参加者もいたと振り返る。違う色が同じスタンドへ混ざり、問題が一クラブの内紛ではなく、「ホームを失うクラブ」に共通する危機だと見える形になった。
当時の選手クレイグ・マスケルは、観客を1万5000~1万6000人ほどだったと回想している。公式入場者数ではなく、満員に近く見えたという当事者の記憶である。
連帯が見えても、ホームは14年間戻らなかった
Fans Unitedの後に、すぐ新競技場が建ったわけではない。ブライトンはゴールドストーンを離れ、ジリンガムで2季を過ごした。その後は街へ戻ったが、ホームは市所有の陸上競技場ウィズディーンだった。
現在のアメリカン・エキスプレス・コミュニティ・スタジアムは、2009年4月に着工し、2011年5月に完成した。1997年の退去から14年後である。この時間差は、危機を外へ伝えることと、土地取得、許認可、資金調達、建設が別の仕事だったことを示す。
Fans Unitedが競技場を建てたわけではない
新競技場を実現したのは、地元での長い運動、クラブ経営の立て直し、行政手続き、資金調達の積み重ねだ。Fans Unitedだけを直接の原因にはできない。
それでも、他クラブの色を消さずに集まる方法は、危機を外へ伝えた。2011年には、今度はヴォーンが応援するプリマスの経営危機に合わせて「Fans Reunited」が呼びかけられた。救われる側と支える側が入れ替わる。その往復が、この運動を一日の観客動員で終わらせなかった。
