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クラブ、競技場、審判を閉ざしても6万人が続けた ドイツ女子サッカー禁止の15年

ドイツサッカー連盟(DFB)は1955年、加盟クラブの女子部門、競技場の貸し出し、審判の参加をまとめて禁じた。これは国の法律ではなかったが、公式競技への入口を閉ざした。それでも女性たちはDFBの外でプレーを続け、15年後に連盟を動かした。

1955年7月30日、加盟クラブに三つを禁じた

DFBは1955年7月30日、ベルリンのシェーネベルク市庁舎で開いた連盟会議で禁止を決めた。加盟クラブが女子部門を設けること、所有するピッチを女子の試合へ貸すこと、DFB所属の審判が試合を担当することを禁じた。国の法律で女性個人のプレーを処罰したのではない。それでも、クラブ、場所、審判という公式競技の入口を同時に閉じる決定だった。

DFBの外で、チームと試合は続いた

女性たちは非公式のチームをつくり、DFBの外で試合を続けた。1960年代末には約6万人の女性と少女がプレーしていたとされる。これはDFBの登録人数ではなく、連盟外を含む競技規模の推計だ。それだけの人数が動くと、別の女子連盟が組織される可能性もDFBの懸念になった。

1970年10月31日、禁止を解いた

DFBは1970年10月31日、バルト海沿岸の町トラヴェミュンデで開いた連盟会議で禁止を撤回した。反対は2票だった。加盟クラブは女子部門を正式に置けるようになり、DFBの規則と大会の中へ女子サッカーが入った。禁止から15年、連盟の外で続いていた活動を公式制度が受け入れる転換だった。

解禁後も、最初から90分ではない

解禁後の試合時間は、一度に男子と同じ90分になったわけではない。連邦政治教育センターとSportschauは、初期の規定を前後半30分ずつと記す。ユース用のボールを使い、スタッド付きのシューズも認められなかった。DFBの後年の回顧には70分の時期も出てくる。規定は段階的に変わり、同じ条件へ移るまで時間がかかった。

公式大会と代表戦は、さらに後から

最初のDFB女子選手権は1974年に開かれた。決勝では、ラインラント=プファルツ州のTuSヴェルシュタットがDJKアイントラハト・エルレを4-0で破った。女子代表の最初の公式戦は1982年11月10日、コブレンツでのスイス戦だ。ドイツは5-1で勝った。解禁は出発点で、全国大会まで4年、代表戦まで約12年を要した。

参考記事DFB — history of German footballDFB — women and female fans in the historical exhibitionFederal Agency for Civic Education — the 1955 banSportschau — the long struggle for equalityFederal Agency for Civic Education — the DFB lifts the ban