アトレティコは、ビルバオの「マドリード支部」だった 青白から赤白へ分かれた二つのクラブ
アトレティコ・マドリードとアスレティック・クルブは、名前が似ているだけではない。1903年、マドリードにいたバスク地方出身の学生たちが、ビルバオ側の支部をつくった。最初は同じ青と白を着て、後には同じ50着の中から赤白を分け合った。現在は別々のクラブだが、名前と色には親クラブと支部だった時代が残っている。
0-2から3-2へ。支部のきっかけになった試合
1903年4月8日、アスレティック・クルブはマドリードで行われたカップ戦の決勝にあたる試合で、マドリードFCに3-2で逆転勝ちした。マドリードFCは、現在のレアル・マドリードにつながるクラブだ。前半に2点を先行されたが、後半に3点を返した。アスレティック公式は、この試合を見た観客の一部がビルバオ側に心を動かされ、同じ月の末にマドリード支部をつくったと説明する。
4月26日、鉱山学校の学生が支部をつくった
4月26日、マドリードの鉱山学校で学ぶバスク出身の学生たちが、アスレティック・クルブ・デ・マドリードを設立した。アトレティコ公式によると、彼らはビルバオのアスレティック会員で、愛するクラブのマドリード支部をつくる発想だった。現在のような独立した二クラブが、偶然同じ英語名を選んだのではない。名称も青白のシャツも、支部という関係の中で引き継いだ。
50着を買い、25着ずつ分けた
赤白への変更にも、両クラブの関係が表れる。アトレティコ公式によると、フアン・エロルドゥイは1909年末、英国で青白のシャツを50着そろえるよう頼まれた。ロンドンで見つからず、帰路の港町サウサンプトンで地元クラブの赤白シャツを50着購入した。ビルバオ側はそのうち25着を受け取り、残り25着が後にマドリードへ渡った。現在の共通色は、一度の買い物から二都市へ分かれた。
ビルバオは1910年、マドリードは1911年
ただし、赤白を初めて着た日は同じではない。ビルバオ側は1910年1月9日、イルン近郊アムテでの親善試合で初着用した。マドリード側は1911年1月22日、ソシエダ・ヒムナスティカ・エスパニョーラ戦で初めて着た。およそ1年の差がある。マドリード側は赤白の上着に、それまでの青いパンツを合わせた。赤白を意味する現在の愛称「ロヒブランコス」は、ここから続いている。
1921年に始まった分離は、1924年まで続いた
親クラブと支部の関係は、一日で終わったわけではない。ASがクラブ史家ベルナルド・サラサールの説明として伝えたところでは、分離は1921年に始まり、1924年に完了した。きっかけは1921年の国内選手権を決める試合だった。マドリード側はビルバオ開催を受け入れたが、1-4で敗れ、当時の会長フリアン・ルエテに批判が集まった。1903年の支部設立から約20年を経て、二つのクラブは別の道へ進んだ。
